3.遭難中の大雪崩

 結局、午後からは全く仕事にならなかった。事務所に戻ってからも、ずっと上の空。目を閉じても苳子の顔が焼きついていて消えなかった。
 幸いだったのは、眞がその場にいなかったこと。同じ会社の営業と事務。営業の僕が会社に留まらないのはともかく、眞が事務所にいないことは珍しい。けれど僕は助かったとしか思わなかった。おそらく、銀行の入金にでも行っているのだろうとしか。
 結局就業時間になっても、眞は会社に戻ってこなかった。
 ドアを開けると、待ち構えるように七日が立っていた。
「おかえり、裄くん。ママならまだ帰ってないよ」
「ただいま」
 すれ違いざま、七日は急に目を吊り上げ、僕の上着をめくる。顔をそれに押しつけると、小さな鼻をひくひくさせて僕の回りを一周した。
「ふーん、アナスイ、か」
 僕はスーツの上着を脱ぎ、リビングへと向かう。七日は後ろにぴったりとついてくる。
「? ナニ、ソレ」
 ソファーに腰かけ上着を側に置くと、七日はすばやくそれを取り上げ、ハンガーに吊し、皺を伸ばす。少し背伸びをしてハンガーを壁フックに引っかけた。それから、ソファーを上って――小さな七日は、ソファーをいつも上るようになってしまう――僕の隣に座る。
「香水の名前。裄くん、女と会ってたでしょ」
 七日はまるで僕の妻であるかのように、忌ま忌ましげに吐き捨てた。仕種や行動はまだまだ子供じみているものの、彼女の言葉は時々大人の女のようになる。
「……七日には隠し事はできないな。そうだよ、苳子と会ってた」
「苳ちゃん!? え、でも、苳ちゃんはずっとサムライウーマンじゃ……そっか、そーいうことか」
 頭の中がクエスチョンマークで一杯になった僕にはお構いなしに、七日は一人だけ納得したように相槌を打つ。
「どういうことだ」
「裄くん、ふられたんでしょ」
 七日は僕の目をまっすぐ見て言った。大きな茶褐色の瞳に、口をぽかんと開けた僕の間抜け面が大きく写っている。昔から、僕は七日に嘘が付けない。都合が悪いことでも、彼女に見つめられるとすぐに告白してしまう。
「あたり。眞から聞いてなかったんだ、苳子……結婚するんだってさ。でも、どうして分かった?」
「分かるよー。香りの影に男アリ! 男が変われば自然と変わるもんだよ」
 七日はソファーから飛び降り、立ち上がる。
 ふわり、と赤チェックのプリーツスカートが揺れた。
 自信たっぷりに腰に手を当てて言う姿は年相応のものなのに、吐き出された言葉は僕と同年代の女の人みたいで。僕は七日のアンバランスさに、振り回されてばかりだ。
「小学生が言う台詞じゃないな、そりゃ」
 苦笑を浮かべて言うと、七日は口を窄めて、子供扱いしないでよ、と呟いた。完全に拗ねてしまったらしい。眉間に大きな皺を寄せて、僕に背を、向けた。
「ごめん、七日。でもね、実際まだ6才だろ? 急いで大人になろうとする必要なんて全くないと思うんだけど」
「裄くんにはわかんないよ、……あたしの気持ちなんて」
 七日の肩が小刻みに震える。そのまま床に座り込み、膝を抱え込んでしまった。
 僕はどうしたらいいのか分からず、途方に暮れてしまう。ただただ七日を見ていることしかできない。
 突然、堰を切ったように七日が笑い声をあげた。腹を抱えて笑いころげている。
 どうやら、僕の反応を楽しんでいたらしい。
 ひとしきり笑い終わった後、七日はブラウスの袖で涙を拭った。
「何も、泣くまで笑うことないじゃないか」
「ごめ、ごめん。ゆ、裄くん、面白すぎるんだもん」
 七日は床に座りこんだまま、こちらを向いた。
「お詫びに教えてあげるよ。サムライウーマンってのはね、名前は勇ましいけど、とっても優しい香りなの。いかにも“やまとなでしこ”って感じで。コンセプトは、一途、勇気、誠実、純粋、……愛」
「へぇ、いかにも苳子って感じだな。じゃあ、キモスイの方は?」
「ア・ナ・ス・イ! 変なギャグ言わないで。裄くん、おじさんみたい」
 洒落のつもりじゃなかったんだけど……。結構、ぐさり、ときた僕にはお構いなしに、七日は言葉を続ける。
「アナスイは、……なんて言うか個性的な香りだよ。可愛いんだけど、どこか官能的で。あたしは、苳ちゃんにはこっちのが合ってると思う。肩肘張ってない、――裄くんに囚われてない、等身大の苳ちゃん」
「……やっぱり、僕といるときの苳子は無理してたのかな」
 七日に問うというよりは、自分に聞くように呟いた。
「否定はしないよ。でも、割とそうだよ。好きな人の前じゃ無理しちゃうことって、よくあるし。別に裄くんが引け目感じる必要はないと思うけど」
「お前、大人だな」
「ばか言ってんじゃないの。さっきは子供扱いしたくせに。言わせてもらえばね、裄くんやママが子供すぎるの!」
「七日も、いるのか?」
「何が?」
「好きな奴とか。それで、相手の前で無理とかしたりするのか?」
「……裄くんだけには言えないし、言わない。多分、一生」
 七日はそれっきり何も言わずに部屋へいってしまった。
 確かに血は繋がっていないとはいえ、僕は七日の父親みたいなもので。女の子は父親に好きな相手とかは言わないものなんだろう。それは分かる。
 ……分かってはいるものの、少しだけ寂しかった。

 七日が寝つき暫くして、眞は帰ってきた。随分酔っているらしく、足取りも覚束無い。
「たらいまー」
「おかえり。七日はもう寝たよ。とりあえず僕が夕飯用意しておいたけど、眞は……食べるわけがないか」
 僕の言葉を聞き終える前に眞はリビングを素通りし、すぐに部屋へ入っていってしまった。
 自然にため息が漏れる。
 時計を見ると、もうすでに日付が変わっていた。
 眞がこんなにも酔っているのは珍しい。基本的に彼女はザルで、どんなに飲んでも酔うことは殆どなかったのに。
 よっぽど安心できる相手と一緒に居たんだろう。そう、例えば……。
 丁度そう考えた時だった。
 眞の部屋から大きな物音と小さな悲鳴が聞こえた。
「どうした?」
 問いかけたものの、返答はない。仕方がなく眞の部屋へ向かい……僕は絶句することしかできなかった。
 開いたままの扉の隙間から見えたのは……。
「なあ、聞いてもいいか? ………………一体、何があったんだよ」
「さぁ……、わたしにもさっぱり。でもお陰で酔いが冷めちゃった」
 眞の部屋は足の踏み場がなくなっていた。
 いや、この表現はおかしい。元々眞の部屋に、足の踏み場は無かったけれど。それでも最低限ベッドの上だけは綺麗に――というか人が寝られるようになっていた。けれど、今は眞が眠るスペースすらない。ベッドがあったはずの場所は色とりどりのハードカバーで埋もれてしまっている。
 そしてそのどまんなかに、うつ伏せで大の字になっている眞が埋もれていた。
 僕はドアの外に立ったまま、視線を少し上に動かし、原因を突き止めた。
「だから、ベッドの上は危険だって言っただろ」
「あら、寝てる時に落ちたんじゃないだけマシでしょ」
 眞の部屋にはベッドの上に作りつけの棚がある。眞はそれを本棚として使用していた。今、それは斜めに傾いている。
「それに収納スペースに本を置いて、何が悪いっていうの?」
「だからってこの本の量から察するに、許容量の3倍は本が入ってたんじゃないか? こんなんじゃ、今まで壊れなかったことの方がおかしい」
「でも、今までは壊れなかったから」
 眞は本の山にダイブした格好のまま、ふて腐れたように声を上げた。格好から察するに、棚にもたれかかった途端、棚が壊れてしまったのだろう。右上の釘が外れて、斜めになったまま固定されている。
「でも、今壊れたじゃないか」
 眞は少し考えるようにこめかみを押さえた後、思いついたように顔を上げた。
「ねぇ、裄、ゴールデンウィークに……」
「直しておけばいいんだろ。よーくわかったよ、命令に従う」
 これを眞の「お願い」だと勘違いしたら最後、彼女は一気に機嫌を損ねてしまったに違いない。いつものようにぶっきらぼうに吐き捨てるのだ。自分でやるから裄はどっか行って。天性の片付け下手の眞がどうこうできる問題でもないだろうに。
 それが分かっていたからこそ、僕はそれを命令と解釈した。
「うん、わかればよろしい」
 ようやく安心したようで眞は起き上がる。
「とりあえず今日はリビングで寝とけ。来客用の布団敷いてやるから」
 眞はそのままリビングへ向かった。
 僕は一人、眞の部屋を見回す。
 眞の部屋にあった本は、アンハッピーエンドのものばかりだということを読まなくても僕は分かる。
 彼女は昔から、アンハッピーエンドの物語しか選ばない。意図しなくても、眞が興味を持って手に取った本は、必ずアンハッピーエンドだった。
 辺りは一面に本だらけで、……けれど明らかに棚の崩壊以前の問題だと思う。とりあえず落ちているレースの物には気づかないふりをして、僕は扉を閉めた。
 普段は鍵を閉めてあるからいいとして、まがりにも男と暮らしているという自覚を持って欲しい。
 ……ゴールデンウィーク中はずっと、掃除をする羽目になりそうだ。

「今日、光陽と会ったの」
 リビングへ足を踏み入れるなり、眞はそう言った。どこかで予測していたことだった。眞が一緒にいるとしたら、彼以外にありえない、と。けれど、彼女の口から五月光陽の名前は聞きたくなかった。
「よりを戻したいって?」
 自分で思っていたよりずっと平静な声が出せた。ただ、手首の震えは抑え切れなかったけれど。
「ううん、わたしのことはどうでもいいみたい」
「なら、どうして」
「七日を――引き取りたいって」
 思っても見ない言葉だった。七日の親権は眞に任せると言ったのは、ほかの誰でもない、五月光陽自身なのに。
「どうして今更」
「さあ。わたしにはわかんないよ。あのひとの考えてることなんて」
「もちろん、断るんだろ」
 あたりまえじゃない、そう返ってくると見越しての問いかけだった。
 けれど、眞は曖昧に微笑むだけだった。
「ずっと、迷ってた。今も迷ってる」
 眞は呟くように言って、僕に背を向ける。
 彼女の肩は細く、誰かが支えていないと折れてしまうように見えた。
「ねェ、3つだけ、質問していい?」
「なんだよ」
「1つめ。裄は七日のこと、すき? 本当の娘みたく思ってる?」
「もちろん」
「2つめ。じゃあ、わたしのことは?」
「……好きだよ、ずっと言ってるじゃないか」
「ラスト。……わたしをすきなのは、ずっと一緒にいるから? それとも、すきだから一緒にいるの?」
 眞は一体何が聞きたいというんだろう。僕には彼女の考えていることが、全く読めない。どうしてそんな話になるのか、さっぱり。
 今は、七日の話をしているはずなのに。
「どっちも、じゃ駄目なのか」
「だめ。どっちか近いほうを選んで」
「後者かな。好きだから、一緒に居たい」
「そう」
 眞は振り返り、僕をじっと見つめた。
 彼女が僕をまっすぐに見ているのは、すごく久しぶりのように感じられる。ずっと、僕の気持ちは煙に撒かれていたから。
 僕もずっと眞の双眸から目が離せなかった。
「なら、決めた。もう迷うこともないね」
 眞は、はっきりとそう告げた。
 その表情からは確かに迷いはふっきれていて。だけど、どこか寂しそうに見える。
 僕には、何をどう決めたのかとは、尋ねることができなかった。

 

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